聖神社について



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聖神社の歴史


●聖神社はその創始年代も由来、社殿創建の年代いづれも定かではない。社叢の推定年齢から古いものと推測される。

宝永七年閏八月(1710)大匠藤原十河彦太夫政次により本殿が改築された(神社所蔵の棟札写に記されている、)


寛政七年(1795)の『因幡志』に「社伝に曰く、祭神は二座、吾勝尊あかつのみこと・瓊瓊杵尊ににぎみのみこと」とある
   当初は吾勝尊つまり正勝吾勝勝速日天忍穂耳命まさかあかつかちはやひあめのおしほほみみのみことと
  その子である瓊瓊杵尊いわゆる天津 日高日子番能邇邇芸命あまつひこひこほのににぎのみことの二神が祀られ
  ていたことがわかる。
  「吾勝尊」が「聖(日知り)の神」として信仰されたところから、「聖大明神」、「聖神社」と命名されたのではないだろうか。

安永5年(1776)8月『因幡志』での「聖大明神は、神階正一位を授かり給い、其の明六年(1777)六月、初めて夏祭行はる」との記述から、少なくとも240年以上前から「聖さん」として崇敬されてきた事がわかる。

安永6年(1777)に正一位を授かると、それを記念して神幸行列が行われたとされ、
    今日の見られる盛大な行列の起源になったと伝えられています(鳥取県指定無形民俗文化財)。

文化10年(1813)拝殿を造替、

文化10年年代(1813) 拝殿彫物製作

文化12年(1815年)に社殿改築

文政12年(1829)の『鳥府志』には「寛政の初年(1719)、氏子講の町々より各屋台を出し、
    子供歌舞伎を仕組みて内町より古海の松原まで挽出し、其の道筋屋台の内より、琴・三味線・胡弓・笛・太鼓の
   拍子を揃え、或は銅鑼を打鳴らし、法螺を吹き、種々の音曲を尽して練り通るほどに、見物の老若男女堵牆の如く
   街衢に立塞り、其の賑々しき事類なかりし」というありさまが描かれている。
  これらを見ても、「聖さん」の祭りは神幸祭の盛大さであることがわかる。

明治3年(1870)境内にあった恵比寿社(祭神・事代主神)の合祀を経てほぼ現在の全容を成す事になった。

昭和27年 鳥取大火に見舞われるまで約四〇臺の屋臺を曳いたが、わずか数臺を残すのみで他はすべて焼失した。

昭和32年(1957)4月に本殿が鳥取県指定保護文化財に指定、

40年ほど前から、二百年以上の歴史を持つ神幸行列のシンボルである神輿は破損がひどく、台車に乗せて引いていました。

昭和50年ごろから、神幸祭は、鳥取地方の春の風物詩として毎年行われていたが、二年に一度と変更になっています。

昭和53年 境内にある社叢のうち大イチョウ(樹高28m・推定樹齢290年以上)と
       大ケヤキ(樹高26m・推定樹齢290年以上)は「聖神社社叢」として鳥取市指定保存樹林に指定されています。

平成14年(2002)3月、春祭にあたる神幸祭が県の無形民俗文化財に指定、

平成16年3月に、二百年以上の歴史を持つ神幸行列のシンボルである神輿が、募金や行政からの補助もあり、完成しました。

平成17年11月、幣殿・拝殿附透塀及び棟札一六枚が県保護文化財へ追加指定されるなど現在ではその文化的価値が広く知られている。

平成23年(2011)社殿の老朽化によりより修理事業が始まっている。(平成二十六年度完成予定)



本殿は桁行1間、梁間2間、入母屋、こけら葺、正面に1間の向拝が設けられている建物で、恵比寿と鯛の彫刻
(恵比寿社より拝殿へ移設されたと思われる)


本殿の建築にあたっては、当時の建築技術の粋が集められました。
「鳥府志図録(鳥取の地誌)」には、「本社は、寛政年間(1790~)更に建てたり、
国中無双の麗営なり、工匠巧を究め彫刻美を尽せり」と、華麗な社殿で、因幡地方における近世神社建築の典型であると紹介されています。

そして、「因幡志」には、「社伝に曰く、祭神は二座、吾勝尊(あかつのみこと)・瓊瓊杵尊(ににぎみのみこと)」とあることから、
当初は、吾勝尊つまり正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかあかつかちはやひあめのおしほほみみのみこと)とその子である瓊瓊杵尊、いわゆる天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと)の二神が祀られていました。
「吾勝尊」が「聖(日知り)の神」として信仰されたところから、「聖大明神」、「聖神社」と命名されたのではないかと言われています。

2年に1度、5月第3土曜日には宵宮、日曜日は神幸祭が行われます。